無駄の読書感想文

自分のためにまたはこれから読もうかなと思っているかたの参考になればと思い拙い感想文ですが書いています。読むペースは遅いので更新もゆっくりです。

華厳とは何か    春秋社 竹村牧男著  4冊目

4冊目

華厳とは何か
春秋社

竹村牧男著

華厳とは何か

華厳とは何か

華厳経典には何が書かれているのか?
知りたくて華厳経典の解説本を色々読んでいますが
竹村さんの本は比較的わかりやすいく読みやすく感じました。

もちろん難しいとこもあるので何回か読んで
噛み締めないと理解はできないと思いますが
読んでいるとなんとなくわかったような気分になります。

華厳の中には1つのことだけではなく
いろんな思想が混ざっていて唯識やら空の理論など
があるのでなかなか一筋縄ではいきません。

1つづつ紐解いて理解していき
最終的にはまとめて内容が理解できるといいのかなと
思います。

とても数ヵ月で理解できる経典ではありませんし
実体験に置き換えて理解するにはかなりの時間が
かかりそうで。

竹村さんの本には各章にわけてまとめて
解説されているので助かります。
その他にも華厳に関する本はでているので
ゆくゆく見ていこうと思います。

以下はメモ代わりに本書から抜粋した文章です。


華厳思想の核心は何かといえばそれはおそらく
「一即一切、一切即一」、「一入一切・一切一入」といった言葉で語られる。
めくるめくような関係性の世界、いわゆる重重無尽の世界をとくことにあるでしょう。

たとえば視覚を例にとってみた場合、物の色・姿などが眼球の網膜に映ります。
しかし像の情報は各各の細胞から視神経を通じて脳に送られることでしょう。送られるのは
あくまで情報であり、電気的な信号をともいえるもので、もはやその像そのものではないと思われます。
脳はこの情報を解読して一つの映像をつくりあげ、眼球のむこうに映写します。
物を見るということはこのようにして成立するのではないでしょうか。
そうしますと私たちが見ているものは外の物そのものではありません。脳が作り出した映像を見ているのだと
いうことになります。脳はある映像をつくり出してそれを脳自身が見ている、認識している、
映像を作り出すjことが見ることであるというかたちで認識する、このように考えざるえません。

このことは視覚の場合だけではありません。私たちが見たり聴いたり知ったりするものすべては
同様の構造の中にあるとかんがえざるをえないわけです。

私たちは心というとすぐ物に対するものを考えてしまいます。
しかし、実は私たちが見たり聞いたりしているものは心の中にあるのです。そういう心は、自分という存在の中に
ある心ではなく、自分もその中に浮かぶような心です。
心の中に見たり聞いたりということが成立し、その見たり聞いたりの事柄の上に自分や物などが想定されているのです。

私たちは絶えず時々刻々に変わっている世界に住んでいるわけで、そのほうが私たちの生にも直接的、一時的な世界だと
言えましょう。しかしながら大体はいつも同じような姿を眼にするものですからそこの変わらない物があると考えて
しまいます。
けれども実は本当は刻々変化して行く世界、事の世界に住んでいるというべきでしょう。

有機体や生命体では、部分と全体が協働していることをみることは容易でしょう。
人間を考えてみれば、心臓はもちろん、はい臓やすい臓・じん臓なども、人間という1個の生命体の中に
あってこそ機能しえます。心臓や肺臓などがそれだけのみによって自らを維持することはできません。
つまり部分は全体の中にあって初めて部分でありえています。

華厳経ではしばしば、はじめて菩提心を発したとき、すでに仏となるので(初発心時、便成正覚)と説いている。
あるいは信が成満したとき即、仏であるとも説きます。いわゆる信満成仏の思想が常に基調にあって
そのうえで多彩な内容の仏道が説かれているのです。

時間的因果関係ということを考えたとき、まず結果よりもあとに原因があるということは
もちろんありえないでしょう。結果と原因とが同じときにあるのだとしたら
少なくとも時間的因果関係にはならないということになります。
では原因は結果よりも前にあるべきというべきなのでしょうか。この場合は原因がなくなってから
結果があることになりますがすでに滅して無に帰したものがどうして結果を生じうるでしょうか。
かりに、実は滅したものではなくて、原因が存在し続けてかたちを変え結果として現れたのだと
するなら、あるものが常住するあり方の一つのかたちということになってしまい、
因果関係ひいては縁起は成立しないことになってしまいます。

華厳とは何か  竹村牧夫著 より引用


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