無駄の読書感想文

自分のためにまたはこれから読もうかなと思っているかたの参考になればと思い拙い感想文ですが書いています。読むペースは遅いので更新もゆっくりです。

6冊目 阿弥陀経 現代語訳の読み方

6冊目

阿弥陀経
現代語訳とその読み方

ひろさちや

阿弥陀経

阿弥陀経

 

阿弥陀経を読むのは初めてです。
浄土三部経という本を読みたくて1冊づつ三部経
を読んでみようと考え、私みたいな素人は一番わかりやすい本
わかりやすい著者というとひろさちやさんです。

ひろさちやさんの本はどれをとっても読みやすく理解しやすいので
知りたいと思った時の最初の本にしています。
少し理解でできたらもっと詳しく読んでいこうと思っています。

さてこの阿弥陀経 現代語訳とその読み方ですが
とても読みやすかったです。
現代語訳がすんなり入ってくるので阿弥陀経
こういうことを言っているのかと少し分かりました。

浄土系の本を読むのははじめてだったので
とてもよかったです。

阿弥陀経とその現代語訳
阿弥陀経にまつわるひろさちやさんの解説という
内容になっています。

南無=すべてお任せ致しますということは
初めて知りました。
すべてお任せ致します仏さまというのが
南無阿弥陀仏ということで人間はやはり無力で
最終的には仏さまに委ねるというのが
大事なのだなと感じました。

委ねてからには結果に良いも悪いもありません。
すべて受け入れる。委ねてのだからお導きなのだから
受け入れるというのも大切なんですね。

ということは本を読んでいてなんとなく分かりました。
ただきらびやかな世界、浄土が書かれている
お話をなぜお作りになったのか?
なんのために?とまだわからない事だらけです。

それが受け入れていないということなのか?
西洋的な分別をしてしまっているのか?
わかりませんが阿弥陀経を知りたいなと思ったら
とても読みやすい本なのでおすすめです。

以下は自分のためにメモです。

「たとえば病気になって、早く病気を治したいと思うのは、
病気を思うがままにしたいと思っていることです。病気のまま、
楽しく生きるようにすれば、病気を苦にしていないのです。
貧しいまま楽しく生きるようにすれば、貧乏を苦にしていないことになります。」

人間の無力であって何もできない。それ故にすべてを阿弥陀にお任せするほかないのです。

わたしの口を阿弥陀仏にお貸ししたのです。声帯をお貸しした。だとすると
わたしの口からでてくる「南無阿弥陀仏」のお念仏は、わたしのものではありません。
阿弥陀仏がわたしの声帯を使って「南無阿弥陀仏」を称えておられるのです。

阿弥陀経 現代語訳とその読み方
ひろさちや著作から引用

無駄

無用の達人  山崎方代 田澤拓也著  5冊目

5冊目

無用の達人  山崎方代 

田澤拓也著作   角川書店

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無用の達人 山崎方代

瑞泉寺の和尚の話かなにかで以前見かけた名前で
山崎方代という人を知りました。

知ったというより歌人という名前だけ見て女の人
といい記憶とどんな歌を読む人なのだろうと一瞬思ったのですが
そのまま調べもしないで頭の片隅に置いておきました。

ある日図書館で山頭火や方哉関連の本を探していると
「無用の達人 尾崎方代」という題名に目が止まり
記憶の片隅にあり気になっていた歌人だったので
ペラペラろページをめくっていると鎌倉 手広 田谷
などの知っているキーワードがありました。

つい先日、手広の交差点を通りましたし
手広のBOOKOFFにもよく行きますので
さらに興味が湧いてきてこれは読むべきだとさっそく
図書館で借りました。

あたりです!とにかく面白い。作者の書く方、愛情が
そうさせるのか興味が湧きどんどん読み進められる
内容にになっていて山崎方代という人をしるのには
いいと思います。
またこの本を入口として歌集や関連本なども
読んでみようと思います。

とにかく印象に残ったのは
嘘つきだけど自分には正直な人だなということ
また昭和の時代、山崎さんみたいな人がいても
暖かく接している人々がいることです。

山崎さんみたいな人は今の時代は絶対出てこないと思います。
少しフーテンの寅さんにも似た生き方
ある意味で男はつらいよだと感じました。

令和の時代では山崎さんみたいな人は
煙たがられ、SNSやユーチューブに流されて
暖かく見守られるということはないのではないでしょうか?
今は豊かだけど昭和のほうが心は豊かだったんだと
感じさせてくれました。

山崎方代 いい男です。
ぜひ読んでみてください。

 

無駄

華厳とは何か    春秋社 竹村牧男著  4冊目

4冊目

華厳とは何か
春秋社

竹村牧男著

華厳とは何か

華厳とは何か

華厳経典には何が書かれているのか?
知りたくて華厳経典の解説本を色々読んでいますが
竹村さんの本は比較的わかりやすいく読みやすく感じました。

もちろん難しいとこもあるので何回か読んで
噛み締めないと理解はできないと思いますが
読んでいるとなんとなくわかったような気分になります。

華厳の中には1つのことだけではなく
いろんな思想が混ざっていて唯識やら空の理論など
があるのでなかなか一筋縄ではいきません。

1つづつ紐解いて理解していき
最終的にはまとめて内容が理解できるといいのかなと
思います。

とても数ヵ月で理解できる経典ではありませんし
実体験に置き換えて理解するにはかなりの時間が
かかりそうで。

竹村さんの本には各章にわけてまとめて
解説されているので助かります。
その他にも華厳に関する本はでているので
ゆくゆく見ていこうと思います。

以下はメモ代わりに本書から抜粋した文章です。


華厳思想の核心は何かといえばそれはおそらく
「一即一切、一切即一」、「一入一切・一切一入」といった言葉で語られる。
めくるめくような関係性の世界、いわゆる重重無尽の世界をとくことにあるでしょう。

たとえば視覚を例にとってみた場合、物の色・姿などが眼球の網膜に映ります。
しかし像の情報は各各の細胞から視神経を通じて脳に送られることでしょう。送られるのは
あくまで情報であり、電気的な信号をともいえるもので、もはやその像そのものではないと思われます。
脳はこの情報を解読して一つの映像をつくりあげ、眼球のむこうに映写します。
物を見るということはこのようにして成立するのではないでしょうか。
そうしますと私たちが見ているものは外の物そのものではありません。脳が作り出した映像を見ているのだと
いうことになります。脳はある映像をつくり出してそれを脳自身が見ている、認識している、
映像を作り出すjことが見ることであるというかたちで認識する、このように考えざるえません。

このことは視覚の場合だけではありません。私たちが見たり聴いたり知ったりするものすべては
同様の構造の中にあるとかんがえざるをえないわけです。

私たちは心というとすぐ物に対するものを考えてしまいます。
しかし、実は私たちが見たり聞いたりしているものは心の中にあるのです。そういう心は、自分という存在の中に
ある心ではなく、自分もその中に浮かぶような心です。
心の中に見たり聞いたりということが成立し、その見たり聞いたりの事柄の上に自分や物などが想定されているのです。

私たちは絶えず時々刻々に変わっている世界に住んでいるわけで、そのほうが私たちの生にも直接的、一時的な世界だと
言えましょう。しかしながら大体はいつも同じような姿を眼にするものですからそこの変わらない物があると考えて
しまいます。
けれども実は本当は刻々変化して行く世界、事の世界に住んでいるというべきでしょう。

有機体や生命体では、部分と全体が協働していることをみることは容易でしょう。
人間を考えてみれば、心臓はもちろん、はい臓やすい臓・じん臓なども、人間という1個の生命体の中に
あってこそ機能しえます。心臓や肺臓などがそれだけのみによって自らを維持することはできません。
つまり部分は全体の中にあって初めて部分でありえています。

華厳経ではしばしば、はじめて菩提心を発したとき、すでに仏となるので(初発心時、便成正覚)と説いている。
あるいは信が成満したとき即、仏であるとも説きます。いわゆる信満成仏の思想が常に基調にあって
そのうえで多彩な内容の仏道が説かれているのです。

時間的因果関係ということを考えたとき、まず結果よりもあとに原因があるということは
もちろんありえないでしょう。結果と原因とが同じときにあるのだとしたら
少なくとも時間的因果関係にはならないということになります。
では原因は結果よりも前にあるべきというべきなのでしょうか。この場合は原因がなくなってから
結果があることになりますがすでに滅して無に帰したものがどうして結果を生じうるでしょうか。
かりに、実は滅したものではなくて、原因が存在し続けてかたちを変え結果として現れたのだと
するなら、あるものが常住するあり方の一つのかたちということになってしまい、
因果関係ひいては縁起は成立しないことになってしまいます。

華厳とは何か  竹村牧夫著 より引用


無駄

華厳経典入門  清水公照 3冊目

3冊目 

華厳経典入門
清水公照

 

大乗仏典を少しずつ読みすすめています。
般若心経、難しいけどなんとなくわかるようなすごいような
感じがする。維摩経は痛快なストーリーで読んでいてどんどん
読み進められる。
華厳教は善財童子の旅の話はよくわかるが
それ以外がほとんどよくわからないし頭に入ってこない・・・・・

これはやはり解説本が必要だと検索してまず
清水公照さんの華厳教入門を読んでみました。

なかなか なかなか
入門といえども難しい・・・・
というか華厳経典の中身の解説というわけではなく
なぜ華厳経典ができたのかのストーリー
また和尚の法話が書いてある本です。

なんとなく華厳経典をある程度理解している人が
読むと面白いのかもしれませんが
まったく華厳経典がわからない場合は他の本から
読み始めたほうがよさそうです。

しかし法話はとても面白く読めましたので
一読の価値はありますし
華厳経典をある程度理解してから
もう一度読み返したいなと思える本です。

メモの代わりに

色は形あり、臭いあるものがすべてを指し、物質と呼ばれるものであります。
受は受け入れるという語でその色を私たちの内で受け入れる力用を指し、感覚作用というのです。
想とは心の表面に相を映す作用で表象作用を指しているのです。
行は心に受け入れる受動的な作用だけでなく、内から迎え入れる能動的な作用がある、
外へ出ていく作用であって意欲をさします。
識は外かた内へ、内から外へと交錯する作用が判断を生み、結論を見いだし、意識することで
終結を見いだすのです。
こうして世界の分類は終結をつげるというのです。
私たちは五蘊の注釈をこまごまと教えられることで仏教への知識を深めるのだと聞かされて
いるのですが、実はそうではなく、分析し続けていくところに何を見出すかが問題なのです。
個々はすべて姿を没し去りただ動いてやまぬ結びつきの理のみがいつもその奥底にながれている
ということで、そこが仏教の狙いなのです。

華厳経典入門
清水公照著より引用


無駄

獅子吼 朝比奈宗源著 2冊目

2冊目

獅子吼 朝比奈宗源著

 

詳しくは書いてあるわけではありませんが
円覚という小冊子に寄稿していて法話を集めて
一冊にした本だと思います。

同じ仏教、禅宗でも時代で捉え方が変わるのだなと
いうのが読み終わってからの感想でした。

禅宗の本は何冊か読みました。
どの僧侶の方も最終的には仏の教えにもとづいて
同じことを言っているのですが
時代感覚で伝え方が変わってくるのだと思いました。

宗源老師は、明治から昭和まで激動の時代を
生きてこられた禅僧らしく
やわらかさというより熱い人なのではないでしょうか。

今の時代感覚で読むともしかしたらわからないことが
あると思いますが
この本を読んでこの時代の人の考え方の当たり前を
読めて新鮮でした。

法話集なので人生のためになるような話が
たくさんありました。

少しだけ取り上げますと

「一般に善人とか悪人とか言うが、佛教の見方では人間には
本当は我という個体はない、だから善人も悪人も究極には人ではなく
善悪の業の仮の人間という個体の上に現れた姿に過ぎない。
罪を憎んで人を憎まずというがまさにその通りです。」

「私の生涯の善知識も実に多様である。
厳格な師、理解深い友、あくまでも信じて支持してくれた
信者。母のような慈しみふかい女性。やさしい後輩や門下
時には逆にこうも意地悪をと腹をたてたり、理解のなさにくやしい
思いをしたり、またその中には一般からはつまらない人といわれて
いた人にも、とても一生忘れられない人もあり、世間で評判高い人に
もとてもこまったものだと思える人もあったが、それがみな私を
育てる恩人となったのだ。
私の短い過去ですらこうである。
生生世世うけた恩となると全く無限で想像もつかない。」


「誠がいかに大切であり、ウソをつくことがどれだけ人間の世界の
罪悪のもととなっているかは、年を取るにしたがってわかってきました。
人が誠であることは難しいことであるが、これがあるかないかで
人間の値打ちを天と地ほど変え、誠を大切とする気風があるかないかの
パーセンテージがその社会、あるいは国家の良い悪いを決める」

獅子吼 朝比奈宗源著から引用
春秋社

人生で必要な言葉が詰まっている本です。
何度も読み返したいと思いますし
数年後に読んだときにはまた違った言葉に惹かれることが
あると思います。

手元に置いておきたい本なのですが
なかなか値段がしますので・・・・・

 

無駄

正法眼蔵 すべての仏のいのち  酒井 得元著

1冊目

正法眼蔵 すべての仏のいのち
酒井 得元著

 

正法眼蔵 すべての仏のいのち 酒井 得元著

正法眼蔵 すべての仏のいのち 酒井 得元著

正法眼蔵を読みたい完読したいと思っている方は多くいらっしゃると思います。
私もその中の一人です。

実際に正法眼蔵を読み始めた時の感想は
まったくわからない!!!
けどなにか大切なことが書いてあるのではないか?
ここまでいろんな人を惹きつける魅力はどこにあるのか?
わからなけど読みたい

そんなわけでわからないので解説をしてくれる本から読み始めることにしました。
因みにいろんな本にはわからなくても解説ではなく正法眼蔵をそのまま読めと
あるのですが私はそうそうに断念しました。

さて本物の僧侶の酒井さん書いた「すべての仏のいのち」仏の巻を
読みました。

やはり私のようなものにはこちらもなかなか難しかったです。

ただ解説のなかの言葉などわかりにくい専門用語などには
巻末にしっかりと解説の解説が書いてありますので
とても親切な本だと感じました。

じっくりこの1冊に取り組むのならとても良い本です。

では読んで仏性というのが理解できたのかと
いいますと3割くらいはわかったかなという感想です。

じっくり取り組んで何回か読み直すなら
きっと理解できるのかなという期待はあります。

とても特徴的に感じたのはやはり仏教学者が書く
正法眼法の解説とは全然違うということです。
修行している方が提唱してくれるとこんなにも見方がかわるのかと
感動しました。

仏教学者と修行している人では全然違います。
これはどちらが良いとか悪いとかではなく
どちらも私は良いとこがあると思っています。

ただ見方が違うだけで人それぞれの仏法ということなのだろうな
と思っています。

本の中では学者や他宗門の批判などがあるので
すこし引いてしまう部分もあるのですが
得ることもたくさんありました。

良いなとおもった文章だけピックアップしてみました。

・只管打坐 自分の満足を一切追求しない。自分のことは一切しない

・「本来の有にあらず、亘古亘今のゆえに」本有といいますと
本来の有。なにかそういうものがあるような気がする。
そんなものではない。亘古亘今は古に亘り今に亘る。言うならば古今を超越している
悉有ということに昔も今もな。昔だ未だというのは、人間の言っていること。
大自然はそんな事関係ない。平気な顔をしている

・何かする時は必ず成果が得られる。ということで行為をする。
収穫がないと承知しない。学問にしても、結論という
「やったらやっただけのこと」がなければいけない。得たい。自分を慰めてくれる
お駄賃がほしい。
こののお駄賃がとうとう仏性になった。
「なるほどこれでうまく解釈ができる。仏性というのは種子だな。」
とこう決め込んでしまう。
その発想は凡夫的発想。普通の人間の発想法だ。

・我々はなんでもものが見えると思っている。
本当はものはみえていないんです。
我々が錯覚を起こして本当にものがそこにあって見ていると思っている。
実は我々はそのものと一体になっているんですよ。
だから所見なし(見るところなし)

・人間っていうものは紫波区がいつの間にやら本物になってしまうんです。

・死ぬとか生きるとか言って大騒ぎをしているのはどこで大騒ぎしているのか。
昼間だけです。死にたくないと騒いでいる、自殺したいと大騒ぎしている。
やっぱりくたびれたらしく、眠っていますよ。我々の生死の問題は昼間の
自我の世界だけ。本来の姿には生死の問題はありません。
これを解脱という

・体全体には生死という問題はありません。
生死を問題にしてやっさもっさやっているのは自我の世界です。
誰でも自分の生まれてことはしらないでしょう。
死ぬことも知らない。人の葬式は見ても、自分で死んだ経験のあるものは以内。
死んだ自分もああなるんだな。想像をしているだけです。考えた死を行っているだけです。
生まれるとか死ぬとかいうのは頭の中の問題だ。
だから生死は実は問題となっておりません。

 

正法眼蔵 すべての仏のいのち」酒井 得元著 大法輪閣 より抜粋

 

この本を読んですこし正法眼蔵が読めた気にはなりました。
まだまだ他の人の解説も読んでみたい
理解したいと思うのですが道はまだまだ長いなと
感じました。

とても良い本です。
ぜひおすすめです。

 

無駄